1: 2019/02/19(火) 13:04:36.30 ID:QSL5d6WI9
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190219-00265054-toyo-bus_all&p=1
「タクシーは乱暴運転が当たり前」「自分の血液が売り物になった」など、昭和の時代は今では信じられない常識が多くありました。
昭和の「通勤ラッシュ」もその1つ。今よりもはるかに混雑していた通勤ラッシュの実情について、コラムニストの服部淳氏が解説します。
この原稿を執筆中に、2017(平成29)年度の都市部の鉄道混雑率が国土交通省より発表された。それによると、東京圏の混雑率は
163%まで下がったそうだ。この混雑率とは、ピーク時(ラッシュアワー)1時間平均の混雑度の割合で、現在のところ、ほぼ目視で測定しているらしい。
目安としては、混雑率100%が、座ることができない人もいるが、他人に触れることなく乗っていられる状態のようで、150%になると「広げて
楽に新聞を読める」状態(最近は新聞を読んでいる人の姿もぐっと少なくなっているので、新たな基準が必要かもしれない)、
200%が「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」状態、250%になると「電車がゆれるたびに体が斜めになって
身動きができず、手も動かせない」状態とのことだ(混雑率100%以外は国土交通省の資料より)。
■「通勤地獄はマンガだ」
東京で通勤、通学していて混雑路線を利用しているなら、毎朝200%から250%の状態だよ、とケチもつけたくなるが、あくまでも東京圏主要31区間の平均であり、
混雑する車両から比較的空いている車両までの平均であり、混雑する急行や快速列車と、若干空いている各駅停車との平均でもある。
この調査が始まった1975(昭和50)年度の混雑率を見ると、東京圏で223%となっているので、それでも東京近郊の通勤ラッシュはだいぶ緩和されているのである。
さらに調査開始以前の昭和30年代から40年代後半の高度経済成長期には、通勤ラッシュの混雑率は300%を超えていたともいう。混雑率300%超えとは、
いったいどれだけの混雑なのだろうか。
当時の新聞を調べてみると、1965(昭和40)年6月7日の読売新聞夕刊に“通勤地獄はマンガだ”というセンセーショナルな見出しが紙面を飾っていた。
東京の新宿駅のあまりにもひどい朝のラッシュを、運輸省(現・国土交通省)の大臣が視察したというニュースなのだが、この大臣が視察後の会見で述べた
「あえて“マンガ”だといおう。すさまじいマンガだ」が、この見出しのもととなっている。
添えられた写真には、4、5人の駅係員(いわゆる「押し屋」)が乗客を中央線の上り列車に押し込んでいる様子を運輸大臣が視察する姿を捉えている。
■毎日1人は失神する通勤地獄
その視察が混雑をさらにひどくしているのではないだろうかとも思えるが、押し込まれている人は、まるで拷問でも受けているような悲痛の表情だ。
この日は2人の女性が失神したそうだが、駅員の話によると毎日1人は失神するのだとか。
日本国有鉄道(国鉄、現・JRグループ)の通勤電車に冷房車が登場したのは1970(昭和45)年なので、当然クーラーはない。
この混雑に梅雨入り前の蒸し暑さが加われば、そりゃ失神する人も頻発するだろう。
だが、単純に混雑だけでいえば、この視察があった6月より、乗客が厚着して“着ぶくれ”になる冬場のほうがひどくなる。
視察以前の冬の新聞を探ってみると、1963(昭和38)年12月12日には、国鉄常磐線の松戸駅で〈ギュウ詰めの乗客のゆり返しでガラスが破れた〉
(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が、翌1964(昭和39)年1月11日には、国鉄中央線において1本故障が出たためにダイヤが大幅に乱れ大混雑、
〈新宿駅では、電車のガラス五枚が割れ、電車のドアが七カ所もはずれる〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が起きていた。
当時のガラスは現在のものより強度がなかったので、ラッシュで割れることもたびたびあり、ドアもよく壊れた。ケガの恐れもあるし、
混みすぎてキツイというだけではすまなかったのだ。
電車に押し込まれた際に靴が脱げてしまう人も多かったようで、国鉄ではサンダルの貸し出しも行っていたり、新橋駅ではラッシュでちぎれたボタンをつける
商売をする店も出現したりした。いずれもこの時代の通勤地獄を物語るエピソードである。
昭和の通勤ラッシュは「地獄」とまで言われていた(写真は1962年のものです
2: 2019/02/19(火) 13:05:34.02 ID:QSL5d6WI0
再び国土交通省の鉄道混雑率の調査に戻ろう。全体の混雑率のほかにも混雑率が高い11の区間が紹介されていた。
見事(? )ワーストに輝いたのは、すっかり常連となっている東京地下鉄(東京メトロ)東西線の木場駅から門前仲町駅に向かう区間で、
1時間平均の混雑率は199%だった。
東京のベッドタウンである千葉県船橋市から、集合住宅も多い東京都江戸川区を経て、オフィスビルが林立する大手町方面を結ぶ混雑必至の路線なので
(東京圏在住者なら特に)納得の順位である。
■地道に改善されていった混雑事情
全体の混雑率が下がってきた現代に、199%もの混雑率である東西線だが、ラッシュがさらにひどかった時代には、どんな恐ろしい状態だったのだろうか。
新聞をさかのぼっていくと、1966(昭和41)年10月12日の朝日新聞(東京版)に、東西線に関するこんな意外な見出しが載っていた。
「相変らずガラ空き 都心乗入れの地下鉄東西線」。見出しの上にはガラガラの車内の写真が掲載されていて、新聞には〈中野駅で11日午前10時うつす〉
と撮影時間が併記されている。当該新聞の発行日は水曜なので、撮影日は平日の午前中ということになる。
通勤ピークは過ぎているとはいえ、1人も座っていないロングシート(横向きの長椅子)があるというのは、都心の平日の日中にはまず見ない光景だ(始発駅なので、
発車までまだ時間があったのかもしれないが)。
実は地下鉄東西線は、この記事の2年前になる1964年に高田馬場駅と九段下駅の間で開業した新路線で、1966年3月に中野駅と高田馬場駅間、
九段下駅と竹橋駅間が開業。この記事の11日前に竹橋駅と大手町駅間が開業したばかりのときだった。中野から大手町(東京駅とほぼ同位置)を結ぶ
路線でしかないため、国鉄中央線とルートはさほど変わらず、利用メリットがまだ少なかったころだったのだ。
その後、1967(昭和42)年に東陽町駅まで延伸、1969(昭和44)年3月に東陽町駅と西船橋駅(千葉県)間が開業し、現在のような利用価値の高い
(混雑しやすい)路線へと成長していったのだった。
このような地下鉄を中心とした新路線が次々と開業し、地下鉄と私鉄の相互乗り入れや、路線の複線化などさまざまな策が施され、
東京圏をはじめとする混雑は地道に緩和されていったのである。
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